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Jun 23, 2011

『ジョリィ・マダム』を正しく賞賛する為の試論   An Essay to praise "Jolie Madame" correctly

ハロー! 私、ビックリしているの。ユリシーズ・ボーイの平治さんが、突然長いエッセイを書いて寄こしてきたのよ。題して、『ジョリィ・マダム』を正しく賞賛する為の試論、ですって! ブリジット・セント・ジョンwith林拓の名義で今月リリースされたあの素晴しいライヴ盤について、平さんには言いたいことが山ほどあるんだわ! 早速読んでみたんだけど、とても面白くて、機知に富んでいて、平さんらしいユーモアでいっぱいの文章! でも、私、それほど日本語が得意ではないから理解できない部分もあったんだけど。だから、残念だけど今回は、彼のテキストの英訳はここには掲載できないんだけど、日本の読者なら絶対に理解可能よね? 読んで、そして楽しんで!

こういうテキストが読める『ユリシーズ』第5号に期待したいわ!

Hello!  I'm so amazed now.  Osamu Taira, one of the ULYSSES Boys, sent me a long essay to me suddenly.  It's called "An Essay to praise 'Jolie Madame' correctly"!  I believe, he still has so many things to tell about the superb live album by Bridget St. John with Taku Hayashi that was released this month.  I immediately read, and then I found the essay was so interesting, witty and humorous that’s Osamu all over!  However, I couldn't understand partly for I am not a perfect Japanese speaker...so, unfortunately I can't translate his essay into English, but you the Japanese readers will understand his what he says definitely, won't you?  Read and enjoy!  Thank you!

I'm looking forward to the "ULYSSES" #5 with full of such essays!

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『ジョリィ・マダム』を正しく賞賛する為の試論

平治(たいら・おさむ)

【前前口上】
知らないでいる事、気付かないでいる事、気付かないふりをしておく事、敢えて無視、シカトする事(これはその対象にもよりますが)、及びそれらの行為に苦痛を感じない事は立派な重犯罪である。よってユリシーズ・ピープル、ボーイズ&ガールズの犯罪率及び再犯率は『ミュージック・マガジン』や『クロスビート』の読者よりも遥かに低いと想像される。世の中の浄化に役立っているなぁ、『ユリシーズ』は(笑)。そう考えると私も罪深い人間ではあるが未だ救われる余地はありそうである。

【前口上】
聴いた者は『ジョリィ・マダム』を賞賛する義務がある!等と鼻息を荒くしてみたものの全生物が賞賛するものに賞賛する義務などが発生するはずもなく、あるとすれば購入代金を踏み倒さずにこの“宇宙一贅沢な自主制作盤”をこの世に届けてくれた人々に少しでも報いることだけであろう。ああもう本当に賞賛の言葉などを考えるのは面倒くさい。そんな暇があるならこの作品をただひたすら1秒でも長く聴いていたいのだよ。というのは本心の一部ですが本当は20年後にシンコー・ミュージックより出版を予定している『この世でシカトされてきた名盤200』のネタとして秘匿しておきたいのです。世界に20枚しか存在しないとかね。私(及び周辺の友人、知人)以外は買うな、聴くな。まぁ最大限譲歩してコンサートに行っちゃた人は許そう(笑)。と言うどす黒い心も少しはあります。が、少し注意深く生きていればさほどの障壁もなく購入出来るという傑作をマニアの嗜好品としての付加価値を高める為だけにこの世に存在させる非道は許されないし、まして30年後の臨終間際にポコラ本で星5つ等という栄誉を見るのは身体にも良くないだろう。

【賞賛する】
『ジョリィ・マダム』を賞賛することは難しい。何故ならそれは賞賛されるべくして既に存在しているから。「賞賛」ならレディ・ガガの新作でも大いにされている。勿論その「賞賛」は音楽を商品世界に陳列する為のレッテルみたいなものだ。それは賞賛されるべく存在しているのではなく、「賞賛」されて初めて存在を誇示出来るから(言い過ぎか?)。存在の多様な顔を持たないノッペラ坊には取り敢えずの落書きが必要なのだ。“100円ライター(河添剛氏言う所の)”には楽しくてしょうがない世界だよねぇ。早い話がなんとでも言えるのだ。そのようなものと比べるのも腹立たしいが『ジョリィ・マダム』は違う。違う等とわざわざ言うのも腹立たしい。でも売れてくれた方が嬉しいに決まっている。そもそも別に難解、難渋、渋面をしているわけでもない愛すべき貌をした『ジョリィ・マダム』がたかだか50万枚(国内のみで)も売れない(と思われる)のは“自主制作盤”という生産力のネックがあるにせよ、よほど市場経済に親和しない何かがあるのだろう。多分『ジョリィ・マダム』は賞賛などによって表象され、商品界に捕縛される事をむずかっているのだ。表象からすり抜けて行くものを宥め賺して賞賛すること。余計なお世話でも賞賛したくなるねぇ。

【ディスク・レビュー的】
アコースティック・ギターと“声”という最小限の楽器が織りなす微細で高純度な振動を媒体としながら林拓とブリジット・セント・ジョンは一つの比類無き美しい世界を結晶化させる。二人の詩想から湧出するその静寂と喧噪を孕む小宇宙は私たちの棲む世界に密やかに侵入し、無防備な私たちを動揺させる。そうこれは用心深く耳を傾けなければいけない音楽なのだ。たかが鼓膜を強振させるだけの“ロック”などは可愛らしすぎて笑ってしまう。これは間違いなくライブ・ドキュメンタリーだ。しかしそれは“そこ”に居た人々を特権的に追憶させる為のみには存在しない。これを聴く人々全てがあの“体験”を無限に反復する為にこの世に産み落とされた甘美で危険なギフトなのだ。
・・・みたいな感じか。でもこれでは300円ライター程度のものだね。

【だが、猫は見える】
ブリジット・セント・ジョンと林拓は奇しくも共に猫達に愛され、猫達から存在を認められた人達だ。シド・バレットもフレディ・マーキュリーもそうだった。どさくさに紛れて言えば私もだ(笑)。エンヤも猫好きらしいが恐らく片思いだろう。それこそ余計なお世話か。
武田花の撮る猫達は「可愛く」ない。中にはちょっとこちらに媚びを売って誘うような仕種の猫もいるにはいるが、そうした少しは可愛いげがあるように見える猫さえもどこか凄みのある娼婦のようなただならぬ雰囲気を漂わせている。猫達はただ軒先や玄関脇、塀の上や下、道の真ん中に置かれているようにいるだけだが、その小さな生き物達は物体と言うより何かの気配として存在する。そこにはその気配を立ち上げる世界が隠されている。隠されているのではなく透かし模様のように私達の世界と重なっているのかもしれない。猫達が寝転んだりちょこりと座る場所。そこには普段私達がその気になって気付こうと思えばいつでも開いている回路があるに違いない。隠されていない秘密。明白な神秘。それは気配となり表象の罠を巧みにすり抜け“家畜化”されずに存在の位相を自由に動き回る術。一度「猫界」に足を踏み入れた選ばれし人間はそうした秘密と神秘に触れ、それを人に伝える秘技を身につけるのだ。この作品を聴いて分かってしまった。花さんが足繁く通う猫界にブリジット姉さんも林君も招待されたのだろう。その時に猫達がくれたお土産の小箱はこちらの世界では花さんのカメラになり大箱は二人のギターになったに違いない。その箱に共鳴する美しくもあやかしを帯びた音色は私達を酩酊させる。うつらうつらとする中で時々現れては消える意識の晴れ間に垣間見えるのはその音界への入口か出口か。
二人のギターが奏でる旋律は猫の髭のように繊細で注意深く、そのストロークは猫のビロード毛を撫でるように優しく、時にはその毛に隠された100万ボルトの静電気に触発されたかのように掻き鳴らされるだろう。二人の静かな歌声は鳴き声となって世界に現れる前の尻尾の振動か。そのようにして二人は猫界から盗んだか授けられた秘技を駆使して音の輪郭に一つの世界を出現させるのだ。

【『ジョリィ・マダム』購入方法。及び諸注意】
さて、そのような秘技を駆使して作られた『ジョリィ・マダム』だが、果たして“巨大な商品の集積で出来た”この世界で購入することが出来るのか? 表象され商品の奴隷となる事から巧みに逃れるこの作品を無事手にすることが可能なのか? 商品の振りをして商品の世界に紛れ込むもの。商品の蓄積された世界にひっそりと紛れ込んでいるもの。そうしたものがエイベックスからリリースされるはずもないのだが、でも大丈夫。朗報です。最低2625円のお金が必要ではありますがディスク・ユニオンでもかのマニアの殿堂モダンミュージックでも購入できるはずです(確実な入手方法としてレコンキスタでの購入をお勧めします)。
だが購入した人全てがこの作品を聞けるとは限らない。CDプレーヤーにCDを挿入すればお手軽に音楽が聞けると素朴に信じている人達には意外なことだが、再生された音がそのまま聞こえるとは限らない。レディ・ガガやらレディオ・ヘッドならば音は機械が忠実に再生するけどね。それでは『ジョリィ・マダム』は聴く者を選ぶのか? 無論そのような狭隘な心で作られているはずがない。『ジョリィ・マダム』は全宇宙に開かれている。しかい悲しいことに「商品」の姿をしてこの世に現れない限り私たちが手にすることが出来ない『ジョリィ・マダム』は商品に囲まれて生活する私達からは疎外されている。猫の産毛のような繊細さで届けられるもの。その強度を直接受け取るには空気を伝わる振動では粗雑すぎる。それをそのまま運ぶことが出来るもの。「全ての現実は媒介されている」のならば急がば廻れということも必要だろう。迂回しつつそのまま触れさせるもの。それは多分愛のようなものだろう。ギフトを正しい振る舞いで受け取ること。『ジョリィ・マダム』を愛でながら聴くこと。そうしないと2625円が無駄になります(笑)。せっかく買ったのだからちゃんと聴こう。

【声の在処】
『ジョリィ・マダム』の持つ世界の生々しさ。それは歌とともに録音された咳やカメラのシャッター音に飛行機音(?)が喚起するライブの臨場感? まぁそれもあるかもしれない。それにしてもこの生々しく歌を立ち上げる力はどこから来るのだろう? そしてこの静穏な歌世界はどうしてこうも人の心を高揚させるのだろうか。
つま弾かれるギターの音色とリズムは表象された声の輪郭を彩ると同時に未だ声という形へと生成していない深層の振動を表現へと誘発する。しかし世界の強度となって現れるのはあくまでも「声」なのだ。今回のツアーではPAを排し、ライブ会場ではアンプを通さない「生音」故に聴く側には一音も聴き漏らすまいという心地よい緊張と集中力が要された。そのお陰で歌は響きの奔放さの中に消えてしまうことなく、声の在処、声が表現へと生成される力の動きを垣間見ることが出来たと言える。無論、商品としての『ジョリィ・マダム』は音量の調整が施され“聴き易く”はなっているが歌の素の姿は変わることはない。ブリジットの声は歌い上げることなく卓越なギターと共に歌に無限の広がりと彩りを与える。その時、彼女の声は歌となって世界に現れることを躊躇い、一瞬遅れてやって来るように聴こえる。遅れると言ってもそれは意識的にテンポをずらして声を発することによる“ため”とは異なり、声に内在する速度とそれが歌となって表出される速度の位相差のようなものだ。
それを強く感じたのはここには収録されていないが早稲田奉仕園(2010年12月17日公演)での「Fly High」を聴いた時である。その時、彼女は喉の不調から全般的に声の出が悪く、「Fly High」の途中では声が完全に掠れてしまう場面があった。しかし声が作り出す世界の輪郭は消えることなくはっきりと現れていたのだ。こちらの思い入れの強さが欠損を想像で補ったのだろうという穿った意見もあろうがそうではない。声そのものの表象が失われた後にも確かにその存在を示す声の気配があった。それは歌となる声の背後で表現の次元へと立ち昇ってくる力が葛藤しているからだ。声が歌という表現を求めて世界に現れ出ようとする力とそのことで声が意味という牢獄に捕縛され、その自由な生成の力を失うのではないかという躊躇いが声となって発出されることを抑制する。そこでは歌となる前の声が吃り声で響き、無限に反復される葛藤が均衡をもたらす。しかし遂には歌うことへの素朴な想いがその均衡を破り声は歌の世界へと向かうのだ。声に表象される前の声の吃りが一瞬の遅れを作り、そこで速度と強度を獲得した声は新たな世界を生み、更新する力となるのだ。 一方、林拓の声は身体の奥から直接声へと噴き上がってくる。そこに力の葛藤は無い。彼の歌は彼の想像力、夢見る力が創り出す世界の輪郭を手掛かりに歌へと立ち昇って行く。そこに生まれる世界は震えるように脆く、繊細だがそれは表現の弱さではない。ナイーブな激情とでも呼べる彼の魅力はそこから来るのだから。やがて彼の声は「表現」を超えて声そのものの世界として現れる時が来るかも知れない。しかしそれは分からない。

【二人の為に世界はあるか?】
ブリジット・セント・ジョンと林拓が棲む歌世界はお互いの夢想するアナザー・ワールドが相互に浸透することで近接する。二人の世界は異なるが同じ力の源泉を見つめることで類縁する。それは二人がデュエットした「Jolie Madame」「Sensee」でより顕著になる。そこには穏やかな連帯やソウルメイト的な友愛があり、それ以上に歌への明白な意志が存在する。その意志は表層的な調和や均衡を求めているのではない。声が出現する時の力が求められている。声の内には歌の表現を超えていく速度が内包され、それが私達の心を動揺させ、現前する(歌の)世界を不断に更新させる。
ブリジットの歌が湧出して来る場所。それが彼女の内にあるのか外にあるのかは分からない。そこは綺麗なお花畑か桃源郷か? 恐らく彼女自身にもその在処は分からないだろう。だからこそ歌は生まれ続け、彼女は歌い続ける。私(人)はそれが何かを知りたいと思う。その為には彼女の歌を彼女の愛する歌を聴き続けるしかない。私(人)はまた林拓が棲むそうした場所をも知りたいと思う。彼の歌にはそれが“心象風景”という可愛らしい姿をして現れることもある。しかし更に彷徨してみたいと思うのは『五月三十二日』よりも不穏で何ものにも出会わず、全てのものが交差する所在不明、宛先不明の番地を持たぬ場所である。知り得ないかも知れない世界を知ろうとすること。大袈裟ではなくそれは実は生きることの全てと同じであろう。私達が見えない一点を見つつ世界を見るように未だ生まれぬ歌に耳を傾けながら『ジョリィ・マダム』を聴き続けること。それは確かに生きることに繋がっている。

【お疲れ様です】
ああ、面倒くさい。早い話がアルバムに『ジョリィ・マダム』の表記を認めただけで何の躊躇も疑念もなくそれを手にした人達がレジに群がればそれはそれだけで良い世界なのだ。『ジョリィ・マダム』をわざわざ賞賛せずに済む世界。それは何と住み易い世界でしょう。それなのにああ、面倒くさい。えっ? 読まされた方が面読臭いって? そうだよねぇ(笑)

※文中の雑誌名、ミュージシャン等の固有名詞は実在するかもしれませんがそれ自身を指しているとは限りません。私怨もありません。あしからず(笑)。

1 comment:

Anonymous said...

うっとりのCDでした。ここのところ日に3回くらいは聴いています。
CDを買うと、大概気に入った曲が2曲くらい入っていて、一度通しで聴いた後はその気に入った2曲をリピートして聴く、みたいなことになるのですが、このCDは、最初から最後まで全部お気に入り。それぞれ違った情景が思い浮かび、美しくて懐かして・・・・・・。ブリジットの暖かーい人間味がじんわり。この冬に流行ったアイマスクのようです。が、アイマスクが眠気を誘うのとは逆で、CDを聴き続けたおかげで私は寝不足。
Jolie Madame、確かに美し~い。林拓ちゃんのセクスィーで優しいコーラス。フランス語もきれいに聞こえて、すごいなあ。ちょっとゲンズブールとバーキンのデュエットに聞こえたりしました。もっと優しくて癒しのデュエットですけど。そして、やはり大好物のSenseeも、最高。映画『二十四の瞳』のリメーク版、イメージ・ソングはこれで決まりです(すいません、発想がチープで。でも、つまり、そのくらい感動的で、美しいということです)。2人のデュエット、デヴェンドラ・バンハートが聴いたら地団太踏んで羨ましがるだろうなあ。
曲順も、選曲も、とてもよかったです。完成度高いなあ。これって多くの人たちに愛されるべきです。
(from MIZU)